tkm2261's blog

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【社会人学生AdC '22】日米研究室の違い: 日本の研究室で論文量産するの無理じゃね?

お久しぶりですtkmです。昨年に続き、社会人学生AdC '22の12日目として日米研究室の違いについて話して行きたいと思います。もう流石に留学生活ネタは尽きてしまったので、そこは他の方のを見られるとよいかもしれません。

adventar.org

昨年の記事はこちら

yutori-datascience.hatenablog.com

*私の詳細な留学模様については過去の記事をどうぞ

TL;DR: 日本の研究室は人が少なすぎる

煽った記事タイトルをつけましたが、別に日本の教授やその他人材や設備が著しく劣っているとかそういう次元では無く。単純に人が足りない。正確に言うと稼動が計算できる人がいない。私の日本の指導教員は「助教時代が一番研究できた。」と言っていたが、助教は講座で1, 2人でこれに少々の博士学生を加えても全く全然足りない。

論文を書くには多大な労力が必要なので今の人がいない状況で論文が出ているのは逆に凄いことのように思えてくる。(紙と鉛筆がメインの分野はわからないが。)

米国の研究室の主力は博士課程学生

周りをみると概ねPI一人に付き4-5人の博士課程の学生を持っている。これは予算によってキャップされるので大きいラボは10人とかいる。(その場合一人で見きれないのでポスドクを雇ったりする)。つまり彼らは雇用されており、PIの指示の下フルタイムコミットで研究する人員がこれだけ揃っている。

Twitterでは日本の教授や准教授は科研費といった研究費申請と学務に忙殺されて研究が出来ないというのはちらほら見受ける。ただこれは日米同じであり、PIはむしろそれが主業務で、基本的に研究指導はするが自分は手を動かさない場合が多い(というかそう期待されている)。

科研費の採択率30%が低すぎて労力を無駄にしているという話もあるが、米国のNSFの採択率は10%ぐらいで、そこで大きい差はでない。というか米国のほうが大変である。 学務においても、米国は教授のサポートが多いというが、結局教授でしか出来ない仕事(授業、学会業務、入試業務)があり日本のと比べて著しく楽になっている感じもしない。というか州立大の事務はかなり酷い。

結局、違いは博士課程学生の数である。とくにフルタイムコミットの博士課程学生の数。競争的資金という米国っぽい方式を導入してみても根本の博士課程学生がいなければこれが回るはずがない。PIがいくら忙しくても各博士課程学生に週1時間MTGができれば研究を回して行くことは可能であろう(論文投稿前を除く)。こうなると「学部修士の学生がいるではないか。」という話になるが、残念ながら彼らは戦力というよりむしろ重荷になりがちである。

学部修士の学生は基本的に戦力にならない

彼らの能力が劣っているわけではない。むしろ年々凄い学生が増えている気さえする。

ただ戦力として計算できない。これがキツイ。この増田でも指摘されているが、学生のやる気に依存している現状は研究をリスクに晒すだけで、積極的に彼らを研究に加えたいとは思わない。

anond.hatelabo.jp

正直な話、たとえ少し追加の手間がかかっても、研究室の端っこでやった適当なおままごとを卒論修論にして旅立っていってもらいたいと思っている研究室は多い。つまり学部修士の学生は研究の戦力どころか重荷なっているケースが多い。

これも指導教員の立場にたつと仕方がない。最長3年(しかも色々ぶつ切りにされる)しかいない学生に一生懸命研究指導しても、一番佳境の時期にインターンだ就活だで稼働が計算できないのならば最初から放置が一番安定の選択になる。

この場合、たとえ自分の研究ネタであっても、学部修士を頑張って指導するよりかは、稼働が計算できるところと共同研究してしまうのが手っ取り早い。教授や准教授なら別に主著論文が必要なわけではないのでそれで良い。

そのため、超優秀な学生が来たら、とりあえずやらせて目が出そうなら掬い上げるという方式になる。つまりかなりの部分を自力で研究者の道を切り開く必要があり、少子化の日本でかなり贅沢な人材の使い方といえる。

日本の博士課程学生は戦力になるか?

「戦力になる。」と言いたいところだが微妙な面がある。能力云々というか、上記の放置が基本戦略な状況から博士課程学生になっても結局その延長線上になりがちである。やはり優秀な人は生き残って行くし、独力で何とかするのを尊ぶ空気さえある。つまり博士課程のエコシステムがない。

残念ながら世界的にAcademiaにおいては「指導教員についてその分野の価値観を学び、そこで評価される研究を行う。」という超属人的なシステムでしか研究者を育てることに成功していない。これはシステム化大好きなはずの米国でさえ採用している以上、現状の最良の方法と思われる。学会がコミュニティである以上、指導教員の導きは思っている以上に大きい。

そういった指導がされている日本の研究室があるのは知っているが、博士課程でもやっぱり放置して頑張れが指導教員としては合理的な選択になりがちである。以前投稿もしたが「早すぎる独立」つまり千尋の谷に突き落とすという人材を贅沢に消費する戦略になっている。

これは指導教員としてはある程度仕方なく、博士課程の学生は自分で授業料を払っているわけで強制する力はないし(なんなら自分で学振もとっている)、米国の5年の博士課程と違って3年なんだから「手取り足取りは修士で学んでいるべき。あとは独力で頑張れ。」という態度になりがちである。

結局ラーメンハゲが正しく、指導教員も強制して学生と揉めたくないので軽いアドバイスに留めて放置が安牌となる。満期退学になっても「残念、芽が出なかったね。仕方がないよ。研究なんだから。」と、そんな訳ないだろと言いたいところだが、これが許容される雰囲気を感じる。

研究者育成にはまとまった時間と規模が必要

じゃあどうしたら論文を量産してくれる学生が育つかというと、結局指導教員制度は丁稚奉公なので、ある程度強制する力がある丁稚時間と、指導した分を論文量産で返してくれる奉公時間を指導教員に与える必要がある。米国の今の制度は5年を良しとしている。

これを一人づつやるのは効率が悪いので、複数人の博士課程を継続して採用して5−10人のチームとして動くのが効率がよい。日本では博士課程学生は少数でかつ互いに独立しているのをよく見るが、これは将来独立した研究者になるには良い訓練と思うが、PIが獲得したテーマのもとチームで攻めるのに比べると効率が著しく悪い。

これのせいで、よく日本で耳にする「先に論文を出したのは我々だが、外国のグループに周辺の仕事を抑えられた。」といのはそこかしこで起きていると感じる。論文量産にはやはりチームが必要。これは自転車ロードレースで集団相手に単独で戦っているようなものなので絶望的な差になる。

チームで近接した分野をリソースを共有しつつ各々で攻めつつ、主著と共著に互いに入り合って進めていくチーム作りが論文量産には絶対必要。

博士課程学生の維持にどのぐらいお金がかかるか。どこから捻出するか。

ウチの場合、博士課程学生の維持には1クォータで授業料$6kと給料$6kがかかるため、年間$36k(夏学期除く)がかかる。もし夏も研究して貰う場合は授業料は無いので年間$42kが博士課程学生の維持コストとなる。5人雇ったら$210kになり小さいラボでは維持がキツイ。

ただ米国の博士課程学生はTAや採点係の雇用が保証されており、教授は給料$6kをTAしてもらうことにより負担を軽減できる。つまり研究費が潤沢なラボは研究すれば良く、そうでない場合は大学がTAとして給料を出している。(TA業務は重いので研究にかなり支障がでるが。)

こういった制度をいきなり日本でやるのは無理だと思う。ただ競争的資金で米国に似せた方向に舵を切った以上、博士課程の給料が出ないのは片手落ちである。

個人的には修士の授業料(ときにProfessional系修士の授業料)を爆上げかつ乱立させて原資を稼いで欲しい。博士課程学生はこれのTAをやれば稼げるようになって欲しい。

今でさえ東大修士といっても千差万別だし、もう入試ザルにしてクソ辛い課題を2年間こなしたらほぼ誰でも取れるようにしようぜと思う。米国のオンライン修士なんてまさにそう。東大であっても修士レベルで高学歴もブランドもクソもないよ。修士卒で凄い人もいるけどその人別に修士だから凄いわけではないでしょ?

日本は怪しげなプログラミングスクールやらセミナーが乱立して社会人以降の学び直しが全く機能していない。ここに浪費されるお金をしっかり大学に持ってきて大学がお金を稼いで欲しい。Professional系修士なら就職予備校でいいんだよ、DockerとかGitでも教えればいい、生徒が満足して金払うなら。それで助教以上の人がこのコマでより雇用されるなら万々歳。卒論修論ナシなら大して負担もないでしょう。

日本の研究室は人もいないのに労力の配分がなんかおかしい

人はいないわ忙しいわで回っていない日本の研究室事情だけど、そんな状況なのに何か労力の配分がおかしいと感じる。自分が日本の学部や修士にいたときは何とも思わなかったが、たかが学部や修士の学生の卒論(研究)指導に労力を割きすぎではないかとおもう。卒論修論を通して学べる論理的な文章の書き方は学生にとっては良いが、労力に見合っていない。もうポスター発表とかで良くないか?何ならグループワークでも良い。教授陣雁首揃えて、たかが学部修士の研究を真剣に見る必要あるか?

学生としても無駄に労力とられるし、修士進学するなら卒論の労力で国際会議付属Workshopの論文でも指導教員と書き上げた方がよっぽど身になるし履歴書に書けるし一応ラボの業績にもなる。

最近大学の先生が企業のインターン等で研究時間が減っていることに憤慨していて、それはそうと思うが。そういう学生に注ぎ込まれる貴方の時間が勿体ないと思う。そういった学生はどうせ研究ガチらないんだから授業だけで卒業出来るようになるのがWin-Winのはず。どうせそういう学生をとる企業は出身大学名しか見てないんだから厳しくしたって誰得だよ。

最後に

色々書いたけど私が適当に思いつくものは、現場の人々はとっくに考えていて、それでも出来ない事情があるんだろうなと思う。あと私が米国でPhDを取っているせいで米国のシステムにバイアスもされている。

ただ普遍的に「人がいないと論文が書けない。」は事実なので。本当に何とかなってほしい。景気が良い頃は企業の中央研究所がこの博士課程の問題を補完していたと思うが、軒並み潰れた現状、博士課程の社会的位置づけとシステムの見直しが求められているのだと思う。